クラレンス・"フロッグマン"・ヘンリー (Clarence "Frogman" Henry、1937年3月19日 - 2024年4月7日) は、米国のR&B・シンガーであり、ピアニスト。「エイント・ガット・ノー・ホーム」、(1956年)、「(アイ・ドント・ノウ・ホワイ)バット・アイ・ドゥ」(1961年)のヒットで知られる。
来歴
クラレンス・ヘンリーは1937年3月19日、ニューオーリンズに生まれた。1948年に彼は市内のアルジアーズ地区に引っ越し、以後亡くなるまでそこに居を構えた。彼はファッツ・ドミノ、プロフェッサー・ロングヘアから大きな影響を受け、幼少期からピアノを弾くようになった。ヘンリーはタレント・ショーでプレイした際には、ロングヘアを模して両側が三つ編みになったかつらを被った。彼は1952年、ボビー・ミッチェル&ザ・トッパーズに加入し、ピアノとトロンボーンを担当したが、1955年の高校卒業を機に脱退し、サクソフォーン奏者のエディー・スミスのバンドに加入している。
1955年のとある晩、ヘンリーは「エイント・ガット・ノー・ホーム」を彼のトレードマークとなったカエル声を交えて即興で歌った。チェス・レコードのA&R担当だったポール・ゲイテンがこれを聴き、1956年9月、コズィモ・マタッサのスタジオにてヘンリーのこの曲をレコーディングさせた。当初は地元DJのポッパ・ストッパがこの曲を推したが、最終的には全米R&Bチャートの3位、ポップ・チャートの20位にまで登るヒットとなった。この芸当により彼は「フロッグマン」というニックネームを得て、晩年まで続くキャリアは幸先のいいスタートを切ったのだった。
ヘンリーは1958年まで、6人編成のバンドで全米ツアーを行ない、レコーディングを続けた。いずれも1961年にリリースされたボビー・チャールズの「(アイ・ドント・ノウ・ホワイ)バット・アイ・ドゥ」と「ユー・オールウェイズ・ハート・ザ・ワン・ユー・ラヴ」も大きなヒットとなっている。
彼は1964年のビートルズの米国、カナダ・ツアーの18公演で前座を務めたが、彼の主たる収入源は19年に渡り演奏活動を行なったニューオーリンズのバーボン・ストリートでの活動によるものだった。
私生活と死
ヘンリーは7回結婚し、その全てが離婚に至っている。彼は10人の子供を設けた。
彼は2024年4月7日、手術後の合併症によりニューオーリンズにて死去した。87歳だった。同月下旬に、彼はニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバルに出演する予定となっていた。
受賞歴
ヘンリーのR&Bにおける先駆者的貢献はロカビリーの殿堂によって表彰されている。2007年4月、ヘンリーのルイジアナ音楽への貢献が讃えられ、彼はルイジアナ音楽の殿堂入りを果たした。
ディスコグラフィー
アルバム
シングル
出典
外部リンク
- Tsimon.com
- クラレンス・"フロッグマン"・ヘンリー - IMDb(英語)
- クラレンス・"フロッグマン"・ヘンリー - Discogs(英語) (英語)




